バッシングではなく、支援や治療、助けや支えの手が必要なとき

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メディアの力は本当に大きいもので、世の中の風潮や声の大きい人の意見にいつのまにか意識をせずとも影響されることってあると思うのです。

最近でいうと…

依存症で苦しんでいる人、苦しみながらも自分が依存症であることを誰にも言えず孤独の中で抱え込んでいる人、または依存症であることを自分自身が受けとめられず、受け入れられない人、etc…

そういう人たちが結果的に大きな問題を起こし、それが明るみになり、さらに周りの人たちに甚大な被害を与えたとき、ほらみたことかと一斉にその人へのバッシングをはじめます。それが今の日本の常識なのかもしれませんが、欧米ではちょっと違う捉え方のようです。

依存症で苦しんでいる人に必要なことは、バッシングではなく、支援や助け、適切な治療であり、再起に向けて本人が努力できる環境と支えが必要であると捉えていて

バッシングされるべき人、バッシングの対象、という目線ではなく、今は支援や助け、治療やカウンセリングが必要な人だ、という目線です。

なので、社会全体がその人が社会に復帰するためにどんな支援が必要か、の部分に論点がいきます。日本もそろそろ表層にある行動における責任追及ではなく、「何がその人をそうさせるのか?」という深層をみたうえで支援する人たちが増えるといいなと思います。

依存症は、アルコール、ドラッグ、ギャンブル、買い物などいろいろですが、たとえば、仕事、甘い物、スマホやネットなど、一見ポジティブな依存症もあります。

この”依存先”を問題にしてフォーカスしてしまうと、依存症の改善という目的からは実は逸れてしまいます。

”依存先”はその人の嗜好や好みなので、それがたとえばチョコレートであっても、その度合いや早急性によって依存症となるものであって、すべての人が何かには依存をしています。

依存症の場合はその度合いや早急性が高く、さらにはリスクを冒してでもやめられない、すべてを失ってもやめられないのです。

なので、「すべてを失ってでもやめられないのはなぜか?」

この問いからはじめていくことが非常に重要です。

”依存先”は、その人にとっての心の痛み止めです。それがアルコールであってもギャンブルであっても、その痛み止めがあるときだけは、心の痛みを感じなくてすむからなんですね。

依存症に対しては、まず何かを感じないようにするためにやっていること。心の痛みを感じないようにするためにやっていること。そして、依存先はその心の痛みをやわらげてくれる痛み止めです。

なので、甘さや弱さを責めたて、孤立させても依存症は決して良い方向には転じません。または依存先となっているものを取り上げたり、奪い取ったとしても、一時的には我慢できるかもしれませんが、何か別の痛み止め(依存先)を探すかもしれませんし、もっと強い痛み止め(依存先)を求めるようになるかもしれません。

それよりも痛みそのものが何なのか、どんな未消化の感情があるのか、どんなときに心の痛みが強くなるのか。そこを引き出してあげること。そして、その痛みを追っていきながら解消していくこと。蓄積されたものが解消されていくことで、少しずつその痛みからくる衝動はなくなっていきます。

誰にも言えずに依存症で苦しんでいる人たちに、どうか甘えや弱さだというバッシングをこれ以上することがなくなりますように。

そして、心の痛みに苦しんでいる人なのだという捉え方とそこに対する支援や助けの手を差し伸べられるような人たちが増え、そういう社会になることを切に願います。

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